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今回はフランス革命①②に続いて、ついにナポレオンの時代に入っていきたいと思います!
前回の記事では、立法議会・国民公会を経て第一共和政の始まりを見てきましたね。
多くの改革を行ったジャコバン派でしたが、最終的にはロベスピエールによる独裁政治となってしまい、クーデタによって恐怖政治は終わりを迎えました。
独裁政治が終わったフランスはどうなったのでしょうか?
それでは見ていきましょう!
総裁政府の成立
テルミドール9日のクーデタを経て、1795年憲法が制定され、国民公会は解散し、新たに総裁政府が成立しました。
総裁政府では、1人に権限が集中しないように5人の総裁が権限をそれぞれ分担していました。
この時期、軍事的活躍によって台頭したのがナポレオン=ボナパルトでした。
パリの士官学校で軍事教育を受けたナポレオンは、1795年王党派による反乱を鎮圧し、オーストリアに対抗するため翌年からイタリア遠征を行いました。
この遠征の結果、1797年にフランスとオーストリアは平和条約を結び、第1回対仏大同盟が解消されます。
さらに1798年からナポレオンはエジプト遠征を実施します。これはイギリスのアジアへの航路を遮断するという目的のもと行われたものでした。
このときナポレオンは多くの学者をエジプトに連れて行っており、アレクサンドリア付近でロゼッタ=ストーンを発見しています。
*ロゼッタ=ストーン…3種類の文字(ヒエログリフ、デモティック、ギリシア文字)が記され、のちにシャンポリオンによるヒエログリフ解読の重要な役割を果たした。
強力な軍事力で善戦していたナポレオン率いるフランス軍でしたが、アブキール湾の戦いでネルソン提督率いるイギリス艦隊に敗北してしまい、これをきっかけに再びイギリスピット首相の提唱により、第2回対仏大同盟が結成されました。
1799年フランスに帰国したナポレオンは軍隊を利用して総裁政府を打倒しました(ブリュメール18日のクーデタ)。
※「ブリュメール」とは革命暦において10月22日から30日間のことを指します。
皇帝ナポレオン
クーデタにより、総裁政府に代わって統領政府が樹立しました。
四院制の議会で、3人の統領によって構成されるこの政府で、ナポレオンは第一統領に就任します。
ナポレオンは国内外に秩序をもたらすべく、諸政策を行いました。
まず国外では、1802年にイギリスと休戦条約となるアミアンの和約を締結し、それに伴って第2回対仏大同盟は崩壊しました。
他方国内では、財政の安定化を図るためフランス銀行を設立し、さらに国内の近代化のために教育制度を設立します。
また、1801年、ナポレオンはローマ教皇と政教協約(コンコルダート)を結び、フランス国内における宗教問題についての規定を設けました。
さらに、終身統領に就任し事実上の独裁権を獲得したナポレオンは1804年、ナポレオン法典(フランス民法典)を制定しました。
この法典は私有財産の不可侵や家族の尊重などを基本原則とし、法の前の平等や契約の自由など、フランス革命およびフランス人権宣言の成果を含んでいます。
法典制定の2か月後には、国民投票によって皇帝ナポレオン1世が誕生し、ここに第一帝政が始まりました(1804年)。
この出来事を描いたダヴィッドの《ナポレオンの戴冠式》は有名ですよね。
ナポレオンは教皇から戴冠を受けたのではなく、自らの手で冠をかぶり、妃にも自らで戴冠しました。
このようなナポレオンの急速な勢力拡大を受けて1805年、再びイギリスピット首相によって主導され、第3回対仏大同盟が結成されました。
ナポレオン1世によるヨーロッパ支配
皇帝となったナポレオン1世は、ヨーロッパ大陸を支配するため、戦争に明け暮れます。
1805年、イベリア半島南西部のトラファルガー沖でネルソン提督率いるイギリス海軍に敗北してしまいます(トラファルガーの海戦)。
しかし同年12月にはオーストリア領北部のアウステルリッツでオーストリア(皇帝フランツ2世)とロシア(皇帝アレクサンドル1世)の連合軍に勝利し(アウステルリッツの戦い[三帝会戦])、この戦いの結果第3回対仏大同盟は消滅しました。
さらに1806年には、ドイツ諸国内にライン同盟を結成し、オーストリア・プロイセンを除いたドイツ諸地域が加盟したことによってドイツを支配下に置きます。
このとき、神聖ローマ皇帝フランツ2世が皇帝の位を辞退し、中世より続いた神聖ローマ帝国の歴史が幕をとじました。
※神聖ローマ皇帝フランツ2世とオーストリア皇帝フランツ2世は同一人物です。
同年11月、ナポレオン1世はイギリスに経済的打撃を与えるために、大陸諸国にイギリスとのあらゆる通商を禁止する大陸封鎖令を発令しました。
しかし、イギリスは南米などヨーロッパ外の市場の存在があったためあまり被害を受けることはなく、逆に植民地から大陸へ原料などが入らないよう逆封鎖を行い、フランスが大きな影響を受けてしまう結果となりました。
さらに1807年、ナポレオン1世はプロイセン・ロシア(皇帝アレクサンドル1世)とティルジット条約を結び、プロイセン領土の削減と多額の賠償金、ロシアに大陸封鎖令への参加を課しました。また、この条約で旧ポーランド領にワルシャワ大公国が成立します。
勢いに乗ったナポレオン1世はポルトガル・スペインを征服し、兄弟を大陸諸国の王に据えることでヨーロッパ大陸を支配下に置きました。
ナポレオン時代の終焉
しかし、この支配は長くは続きません。支配下の各地域でナポレオン1世に対抗する動きが始まりました。
まずプロイセンでは、1807年哲学者フィヒテが「ドイツ国民に告ぐ」という講演を行い、ドイツ人の祖国愛を説きつつ従来の教育制度の根本的改革を主張しました。
この講演はドイツ国民の民族意識を高め、シュタイン・ハンデンベルクの指導のもと行われたプロイセン改革にも影響を与えます。
改革では、従来行われていた身分的支配からの農民の解放や、軍事改革が行われ、さらに教育改革の一環でベルリン大学が創設され(初代総長にフィヒテが就任)、都市の自治や営業の自由も実現しました。
さらにスペインでは1808年から反乱が始まりました。
この時の様子を描いたゴヤの《1808年5月3日》の絵画も非常に有名な作品ですよね。
このような情勢の中で1812年、ロシアが大陸封鎖令を無視したことを受け、ナポレオン率いるフランス軍はロシア遠征を行いますが、ロシア軍の強い反撃にあい、遠征は失敗に終わります。
さらに追い打ちをかけるように第6回対仏大同盟が結成され、イギリス・プロイセン・ロシアをはじめとするほとんどのヨーロッパ諸国が参加し、ナポレオン打倒のため解放戦争が勃発しました。
1813年~1814年のライプツィヒの戦いではプロイセン・オーストリア・ロシアの連合軍がナポレオン1世を破り、パリを占拠します。その結果、ナポレオンは皇帝を退位し、エルバ島に送られます。
そして1814年、ルイ18世が即位し、ブルボン朝が復活しました。
また、同年からウィーン会議が開催され、フランス革命・ナポレオン戦争の戦後処理のため、大陸諸国による利害調整が行われました。
1815年にはナポレオンがエルバ島から脱出し再び皇帝に就任しますが(百日天下)、ワーテルローの戦いでイギリス・オランダ・プロイセンの連合軍に敗れ、セントヘレナ島に流刑となり、1821年ナポレオンはそこで生涯を終えることになります。
おわりに
今回はフランス革命で台頭したナポレオンがヨーロッパの覇者となる流れと支配の終わりを見てきました。
ナポレオン時代は戦争が多いので、地図を片手に勉強することをオススメします!
そうすることで流れを把握し、共通テスト対策にもつながるかと思います。
3回にわたるフランス革命とナポレオンについての解説でした!
最後までお付き合いいただきありがとうございました!
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