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【武田塾 豊中校】第一次世界大戦後のアメリカとロシア

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今回は世界史の第一次世界大戦後のアメリカとロシアの情勢について解説していきたいと思います。

2つの世界大戦については詳しく知っていてもその間の情勢は意外と知らない人が多いのではないでしょうか。

ですが、この部分も2つの世界大戦と同様に入試によく出ます

読みやすいようにストーリーにしてあるので、是非最後まで読んでいってください。

 

 

第一次世界大戦後のロシア

ソ連は第一次世界大戦の途中でドイツとブレストリトフスク条約を結び、他国よりも一足先に終戦します。

なぜならロシア革命が起きていたからです。ここからロシア革命についての説明をしていきたいと思います。

一般的にロシア革命と呼ばれるものは正式には第二次ロシア革命という名前で、実は第一次ロシア革というものも存在します。

なので先に第一次ロシア革命の説明をしていきます。

第一次ロシア革命は日露戦争中に発生します

日露戦争はロシアにとってダメージの大きい戦争でした。

戦局が悪化すると、ロシア内の物資が欠乏したり、労働者の給与が払えなくなったりしたので、人々の不満は高まっていきました。

そんなある日、人々が当時の皇帝ニコライ2世が住む王宮の前でデモを行っていると、皇帝は民衆の意見を聞き入れるどころか、軍隊に発砲を命じ、1000人もの人(政府発表では約100人)が亡くなりました。この事件を血の日曜日事件といいます。

これ以降人々は皇帝に不満を持つようになりました。

1917年3月 ペトログラード食料改善のストライキが発生しました。

軍が制圧に向かいますが、軍の一部が労働者側に参加して、ソビエト(評議会)という自治組織が各地で再結成し、政府によらない独自の政治をめざすようになります。

*1905年のソビエトは工場労働者の代表者が中心。

この時の民衆の不満が爆発したのが第二次ロシア革命です。

第二次ロシア革命は更に二月革命十月革命に分けられます。

革命は共に第一次世界大戦中に発生しました。前回と同様に戦況が悪化したことから物資と給与が減ったので、民衆によるデモが発生します。今回は前回とは違って軍隊が民衆側に回ったため、ニコライ2世は追い詰められ、退位し時期皇帝に弟(ミハイル・アレクサンドロヴィチ・ロマノフ)を指名しました。

しかし、ミハイルは「臨時の」即位拒否の宣言に署名した。皇帝になることを辞退しました。

この結果、ロマノフ朝は滅亡しました。これが二月革命です。

さらにその宣言の中でミハイルは、臨時政府に服するよう国民に呼びかけてもいます。

二月革命で皇帝が退位したため代わりに臨時政府権力をもつようになります。

そのため、この当時のロシアは臨時政府とソビエトの両方が権力をもつ二重権力の状態になっていました。

この臨時政府は資本家などの上流市民(ブルジョワ)が中心だったので、民衆の意見が適切に反映されませんでした。

資本家の多くは工場を持っていて、戦時中は武器の製造でとても儲かったので、臨時政府は民衆の期待を裏切り、戦争を続行する方針を打ち出します。

対して、ソビエトは停戦を主張しますが、祖国防衛のためにすぐに停戦は行いませんでした。

この状況下で登場したのが、戦争反対を唱えた続けた社会主義者のレーニンです。

レーニンは亡命先のスイスから舞い戻り、戦争中止とソビエト中心の政府結成を記した「四月テーゼ」(テーゼは「宣言」という意味)を発表しました。

その半年後、彼の率いる急進的社会主義政党、ボリシェヴィキが武装蜂起し、一気に臨時政府を倒します。これが十月革命です。

この直後にレーニンはドイツとブレストリトフスク条約を結び、第一次世界大戦から離脱します。

ロシアを支配したボリシェヴィキは共産党と名前を変え、平等を国の柱とした社会主義主義政策を進めます。

しかし、他国の支配者にとっては、社会主義の国が成立すると自国にも社会主義が波及し、自らの権力に影響を及ぼす可能性があります。

そこで社会主義が広まることを防ぐため、イギリス、アメリカ、フランス、日本などがロシア干渉戦争を起こします。

ロシアにとってはとても苦しい戦争でしたが、なんとか乗り切って、ロシア、ウクライナ、ベラルーシ、カフカス地方を統合したソビエト社会主義共和国連邦、いわゆる「ソ連」が成立しました。

社会主義国家が成立するのは世界初です。

レーニンの死後はスターリンに引き継がれ、社会主義が推し進められます。

ちなみに、日本ではロシア干渉戦争のことをシベリア出兵といい、この時シベリアに行く兵士に食料をたくさん供給したため、食料不足が発生しました。

これにより起きたのが米騒動です。

これにより当時の寺内正毅内閣は総辞職を強いられました。

第一次世界大戦後のアメリカ

第一次世界大戦前に大きな力を持っていた国はイギリスとフランスであり、両国はしのぎを削っていました。

そして両国は第一次世界大戦前に同盟を組み、共に戦勝国となりました。

しかし戦勝国となったものの、第一次世界大戦で消耗しつくした両国は、戦争で多額の借金をアメリカに負ってしまいます。

そして両国の勢いは停滞し、反対にアメリカが大きな力を持つようになります

イギリスやフランスが借金を返すには、当然お金が必要です。

両国は返すためのお金をドイツからの賠償金で賄おうと考え、ドイツに多額の賠償金を課しました。

しかし、賠償金が高過ぎて、ドイツはあまり返すことが出来ずにいました。

これに困ったのはアメリカです。

なぜなら賠償金が払わなければ損をするのはアメリカだからです。

そこでアメリカはこの問題を解決するためにドーズ案を発表しました。

この案によると、まずアメリカはドイツに対して少額の融資を行い、ドイツの経済発展を助けます。

そしてドイツが発展したらドイツで生み出されたお金を用いて賠償金を払ってもらい、イギリス、フランスの借金をアメリカに返してもらいます。

こうすることでアメリカはお金を確実に回収できます。

アメリカの介入によってドイツの復興が進み、ヨーロッパは安定し、不戦条約が結ばれました。

上で述べたようにアメリカは第一次世界大戦の後とても繫栄しました。

世界経済の中心となり、ディズニー、ハリウッド映画、ジャズなど、今でも人気のあるものがたくさん登場しました。

この時代にアメリカ大統領になったハーディング、クーリッジ、フーヴァーは好景気に支えられた自由放任政策を採用しました。

商品、土地、不動産などの価格が軒並み上昇し、景気は非常に良い状態でフーヴァーはこの好景気を永遠の繫栄と言いました。

そんな好景気の中、1929年、突然ニューヨーク株式市場の株価が大暴落します。

世界恐慌の始まりです。この暴落は翌日も止まらず、暴落がニュースで報道されると他の株式市場にも波及し、アメリカ全体が恐慌となりました。上で述べたように、ヨーロッパの安定の根本的な要因はアメリカの融資でした。

しかし、この恐慌によって融資は滞り、ドイツ経済は悪化し、連鎖的にイギリスやフランスの経済も悪化し、世界的な恐慌となりました。

自由放任政策のせいでモノを作りすぎ、結果として恐慌が起きたので、その反省から、フランクリン=ローズベルト大統領の時に介入政策へ転換します

そこで彼が行ったのがニューディール政策です。

作りすぎを防ぐため生産量の調整を行い、失業者救済のために公共事業を行いました。

これによって、なんとか経済の危機を乗り切りました。

おわりに

いかがだったでしょうか。

知らないこともたくさんあったと思いますが、大事なところだけ覚えればいいという気持ちで、気負わずに読んでください。

ここで学んだことが皆さんの勉強の一助になれば嬉しいです。

頑張ってください。

 

 

 

 

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