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【武田塾 豊中校】フランス革命②~立憲君主政から共和政へ~

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今回はフランス革命②ということで、①に続いて、フランス革命の第二段階について解説していきたいと思います!

革命前のフランスは旧体制と呼ばれる3つの身分に分かれた社会構造で成り立っていましたが、特権階級への課税案を審議すべく召集された三部会で身分間の対立が生じ、憲法制定のために団結した第三身分によって国民議会が誕生しました。特権階級が持っていた封建的特権を廃止、フランス人権宣言の採択など革新的改革を行いました。そして1791年憲法が制定され、国民議会は解散、新たに立法議会が成立しました。

今回は立憲君主政から共和政へ移行するまでの流れを見ていきます!

それではいきましょう!

立憲君主政の始まり

1791年憲法に基き、制限選挙によって成立した立法議会では、共和政を支持するジロンド派と、立憲君主政を支持するフイヤン派が対立していました。ジロンド派は商工業者を中心に形成され、対外戦争に積極的な急進派でしたが、一方のフイヤン派は、貴族や上流市民が中心でした。

立法議会

対立していた両派でしたが、1972年3月にはジロンド派内が成立します。

1791年のピルニッツ宣言以降、フランスとオーストリアは緊張状態にありましたが、そんな中1792年4月ジロンド派内閣はオーストリアに宣戦布告し、革命戦争が勃発しました。

敵の軍隊が続々とパリへと押し寄せ、フランス軍にとって厳しい状況が続きました。

しかし、7月11日「祖国の危機」宣言が出されると、革命を守るためフランス全土から民衆の義勇軍がパリへ集結します。

※このとき歌われた「ラ=マルセイエーズ」はのちにフランス国歌となります。

そして8月10日、フランス側に内通者がいるとして、民衆と義勇軍はテュイルリー宮殿を襲撃し、多くの貴族に加え国王一家を逮捕しました(8月10日事件)。

この出来事を受け、立法議会は王権停止を宣言し、男子普通選挙を行うことを決定しました。

さらに革命戦争が勃発して5カ月、ついに1792年20日フランス軍がオーストリア・プロイセンの連合軍に初勝利を収めました(ヴァルミーの戦い)。

共和政への移行

立法議会によって定められた男子普通選挙に基づいて新たに国民公会が召集されます。

1792年9月21日、彼らは王政の廃止を宣言し、ここに第一共和政が成立しました(~1804年)。

国民公会では、最左翼の山岳派が台頭すると主導権を握るようになり、ジロンド派と対立するようになりました。

※現代でも使用されている「左派(左翼)」「右派(右翼)」という言葉は、国民公会で議員たちが左右に分かれて着席したことで誕生した言葉です。

山岳派の中でも特に急進派のことをジャコバン派と呼びますが、サンキュロットと呼ばれる下層市民や農民を中心とする彼らは急進的共和政を主張します。

国民公会

国民公会のもと、1793年1月、革命広場で多くの民衆の目の前で、ルイ16世が処刑されました。

このとき使用されたのが有名なギロチンですね。

革命もついに国王の処刑というところまで来ると、国内外で革命に反対する動きが出始めます。

危機感を覚えたヨーロッパ諸外国は、イギリス首相ピットによって提唱された第1回対仏大同盟を結成し、イギリス、プロイセン、オーストリア、オランダ、ロシア、スペインなどが同盟を組みました。

フランス国内でも、1793年3月には王党派による反革命を訴えた暴動が起き、半年以上続くこととなりました(ヴァンデーの反乱)。

議会内では、ジャコバン派が、改革を阻むジロンド派を議会から追放しました。

ここからジャコバン派による独裁政治が始まります(=恐怖政治)。(1793年6月)

ジャコバン派の独裁政治

ジャコバン派は、議会外の革命派民衆であるサンキュロットからの支持を受け、急進的な改革を行いました。

議会によって制定された1793年憲法では主権在民、男性普通選挙、抵抗権などの諸権利が規定されました。

男子普通選挙は平和が回復した際に実施される予定でしたが、結局実施されることはありませんでした。

さらに、新たに3つの政治機関として、政治や戦争に関する最高決議機関である公安委員会、治安・警察を担う保安委員会、反革命派の審理をする革命裁判所が設置されました。

改革を邪魔するジロンド派がいなくなった今、ジャコバン派は次々と諸改革を行います。

【ジャコバン派による諸改革】

最高価格令によって物価を統制

封建地代の無償廃止

革命の第一段階で、国民議会の下、封建的特権が廃止されましたが、封建地代の廃止は有償でした。

国民公会はこの封建地代を無償で廃止し、農民に土地を分配しました。

革命暦の制定

キリスト教徒深い結びつきのあるグレゴリウス暦を否定し、十進法に基づく暦(1週間=10日間、1か月=30日)を制定しました。(1806年まで)

メートル法の採用(1799年~実施)

度量衡・基準の統一のため、長さ・重さ・量の単位がメートル・グラム・リットルに統一されました。

理性崇拝

エベールによって説かれ、人間が従うべきは神ではなく理性であるという原理をもつ、反キリスト教運動の一環でした。

 

さらに、ジャコバン派は反革命派を次々とギロチンで処刑していきました。ここで王党派やジロンド派に加え、王妃マリー=アントワネットも処刑されてしまいます。

 

1793年7月、ジャコバン派の初期の主導者であったマラーがジロンド派により暗殺され、彼に代わって新たなリーダーとなったロベスピエールは自身の反対勢力を次々と処刑し、独裁政治を始めました

理性崇拝を説いたエベールも、穏健派のダントンも処刑されました。

ロベスピエールによる独裁政治は、人々に多大な不満をもたらす結果となり、1794年7月、ロベスピエールは逮捕され、自らもギロチンで処刑されました(テルミドール9日のクーデタ)。

※「テルミドール」とは、革命暦において7月19日から30日間のことを指します。

これによりジャコバン派による独裁政治は終わりを迎えました。

おわりに

今回は立憲君主政の成立から第一共和政への移行、そしてジャコバン派による独裁政治までを解説しました。

フランス革命では革命派と反革命派という構造だけでなく、革命派の中でもジロンド派やフイヤン派、ジャコバン派など、それぞれ異なる主張を持つ人々が対立しながら進んでいくので、各派の主張と対立関係を明確にすることが重要になってくるかと思います!

そして次回はナポレオンによる時代に入っていきます。

今回も最後までお付き合いいただきありがとうございました!

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