日本の城の歴史について戦争の歴史と共に・・・(戦国~現代)
皆さんこんにちは!
E判定から逆転合格でお馴染みの、武田塾尾張旭校です!!
今回は、以前の続きで日本の城の歴史について
戦国時代から現代まで紹介します。
ぜひ、城や日本史への興味に繋げてください。
城の種類について
城は「山城」「平山城」「平城」の三つの種類に分けることが出来ます。
本来このほかに「海城」という種類も存在しますが、今回は省略します。
では、それぞれの種類について紹介します。
山城とは、「通常一〇〇~二〇〇m級の独立した山頂部や、高い山から派生する尾根上の先端部やピークに築かれることが多い城である。」(加藤理文、『よくわかる 日本の城 日本城郭検定公式参考書』、ワン・パブリッシング、2020年11月、202頁。以後『公式参考書』と記載)
平山城とは、「居住と領国支配を優先するため丘陵部に築かれる」城をのこと。(『公式参考書』202頁)
平城とは、「デルタ地帯や湖沼、湿地帯という平野部の中の要害を利用して築かれた城である。」(『公式参考書』203頁)
それでは、予備知識を付けたところで、本題の方へ入っていきたいと思います。
戦国・安土桃山時代
前回の続き、まずは戦国時代からです。
皆さん、城と言えば戦国時代のイメージがあるのではないでしょうか。
戦国時代は1467年の応仁の乱から1615年の大坂夏の陣までの
皆さんのイメージの通り、戦国時代に多くの城が築かれます。
「日本100名城」に選ばれた城の多くもこの時代に造られています。
そして、戦国時代によく造られたのは山城である。
戦国時代はご存じの通り戦乱の時代であり、そのため、詰めの城というものが造られる。
詰めの城とは「戦闘目的で、館(居城)の背後や近くの山上などに築かれた城。有事の際の、最後の防衛拠点とする。」もの。(『公式参考書』288頁)
戦国時代ではいつ攻め込まれるか分かりません。
そのため、常に戦いに備えていなければならなかったので、この詰めの城が多く造られた。
続いては、みんな大好き安土桃山時代に入ります。
安土桃山時代は織田信長と豊臣秀吉が政権を握っていた時代であり、1570年頃から1600年頃のおよそ30年のこと。
またの名を二人の名前からとって織豊時代(しょくほうじだい)ともいう。
なので、今回は織田信長の「安土城」「岐阜城」「小牧山城」、豊臣秀吉の「大坂城」「聚楽第」、
これら五つの城について紹介していきます。
まずは織田信長から。
織田信長は清州三奉行の一つである織田弾正忠家(おだだんじょうのじょうけ)の当主織田信秀の嫡男として誕生した。
そして、19歳で家督を継ぐと1565年に尾張を統一した。
桶狭間の戦いの時には尾張を統一していなかったのは驚きですね!
しかし、その後天下統一目前まで迫ったが、1982年6月21日(天正10年6月2日)に京都の本能寺に滞在中、
家臣の明智光秀に裏切られ、命を落とす。これがいわゆる本能寺の変である。
信長の紹介をサラッとしたところで本題に入ります。
まずは小牧山城についてですが、この城は1563年、織田信長が尾張を統一する前に造られた平山城です。
織田信長が初めて1から築いた城でもあります。
小牧山城を建築した主な理由は美濃攻めである。
これまでの居城である清州城は美濃を攻めるには南に位置していたため、小牧山に新しく城を築いた。
この城の本丸の周りには石垣があり、近世城郭の先駆けとなったとされている。
次は岐阜城について
岐阜城は岐阜県の金華山の山頂に築かれた山城です。
この岐阜城はもともと美濃の大名、斎藤道三の城である稲葉山城でした。
斎藤道三は信長の正室である濃姫(帰蝶ともいう)の実父、つまり信長の義父に当たる人物である。
ここで皆さんは「信長は義父である道三を攻めたのか?」という疑問が浮かぶかもしれません。
しかし、信長は決して道三を攻めたわけではありません。
美濃攻めの時には道三はこの世にいなかったからです。道三は病死したわけではなく、
息子の斎藤義龍に長良川の戦いで殺されていました。
しかし、道三はその前に信長宛てに「信長に美濃国を譲る」という旨の遺言状を送っていた。
信長はその遺言を守るために美濃攻めを行った。
そして、美濃攻めを完了させ、信長は稲葉山城に入り、「岐阜城」と改め改修を行った。
この岐阜城は交通の要所にあるためとても立地の良い城であり、
信長が改修を行った後は石垣造りの城になったと思われる。
信長最後の城は安土城です。
安土城はご存じの通り信長の最後の城で、滋賀県近江八幡市に築かれた城です。
この城は僅か数年で廃城になってしまっているが、この城はこれまでの城とは違うものだった。
それは「軍事的施設でしかなかった城が、居住空間となり、政治的な場へと変化した」(『公式参考書』92頁)ことです。
また、この城は初めて総石垣で造られた城でもあります。
このように安土城はこれまでの城とは一線を画す城であったことが分かる。
次は豊臣秀吉です。
まず豊臣秀吉は尾張の農民の出身でした。
その後、数々の武功を上げ、どんどんと出世していき、信長亡き後に柴田勝家との戦いに勝利し、天下人へとのし上がった。
さて、秀吉について少し紹介したところで秀吉の城の紹介に入ります。
まずは大坂城です。
大坂城は名の通り大阪府に築かれた平山城です。
ここで皆さんは「大坂城ではなく大阪城では?」という疑問が浮かぶかもしれません。
しかし、「大坂城」で合っています。
確かに、現在あるものは「大阪城」です。しかしあの大阪城は実は3代目なんです。
初代が秀吉の築いた大坂城。2代目が徳川が築いた大坂城。3代目が昭和の頃に築かれた現在の大阪城です。
大坂という地名は明治時代にこざとへんの大阪と改められたため、3代目は大阪城という。
今回紹介するのは秀吉が築いた初代大阪城です。
この大坂城は、前述した安土城を凌駕する規模の城であった。
それに加え、城としての守りの堅固であった。大坂冬の陣で、その堅固さが家康を苦しめたとされています。
しかし、大坂夏の陣にて、落城し、その後徳川によって大坂城は再建されましたが、
豊臣期の大阪城は埋め立てられてしまった。
現在の大阪城↓
次は安土桃山時代の紹介する最後の城です。
その城の名前は聚楽第(じゅらくだい/じゅらくてい)です。
この城は1586年(天正14年)に着工し、完成の後に秀吉が移り、ここで政務を行った。
その後、秀吉は関白職を甥の秀次に譲り、この聚楽第も秀次の邸宅になった。
しかし、その秀次に謀反の疑いがかけられ秀次は切腹。聚楽第も徹底的に破却された。
聚楽第は後陽成天皇の行幸も行われ、名実ともに豊臣政権が成立したことを示す城であった。
これまで織田信長の城と豊臣秀吉の城を五つ紹介したがこれらの城にはある共通点がある。
それは「見せる城」であったこと。
これまでの城は軍事施設でしかなかったが、これらの城は
信長、秀吉の力を誇示する目的もあり造られた。
例えば大坂城は安土城を凌駕する規模であったと前述したが、
その理由は、自身こそが信長の正統な後継者であることを知らしめようとしたからである。
このように安土桃山時代の信長・秀吉の城は
軍事施設の役割だけでなく、力を誇示する役割もあった。
戦国・安土桃山時代の城を紹介してきたが、
この時代では城の役割が大きく変化することが分かった。
江戸時代
戦乱の世を過ぎ、いよいよ江戸時代に入ります。
江戸時代は1600年(関ケ原の戦い)から1868年(大政奉還)まで続いた。
皆さんは江戸時代に城のイメージはあまりないと思いますが、
江戸時代は城にとってとても大事な時代なんです。
では、江戸時代の城の紹介に入っていきます。
まずは、江戸時代で最も有名な城だと思われる江戸城からです。
江戸城天守台↓
江戸城とは名の通り江戸(今の東京都千代田区)に築かれた城であり、
征夷大将軍の徳川家康の宣下により「将軍の城」となった。
城自体が築かれたのは15世紀だが、家康の宣下で「将軍の城」となると
将軍の城に相応しくなるよう様々な改修が行われた。
そして江戸時代には天下普請というものがある。
天下普請とは「徳川幕府が諸大名を動員して行った城普請。軍役の一種」(『公式参考書』288頁)である。
この天下普請により多くの城が築かれた。
その中には膳所城(ぜぜじょう)や彦根城、名古屋城などがある。
そしてこの天下普請には、豊臣領を包囲する大坂城包囲網の意味のあった。
また江戸時代には城にとって重要な法令が発布された。
それが「一国一城令」(いっこくいちじょうれい)である。
この一国一城令の内容は
「一国(大名の領国、後の藩)に一つの城(居城)のみを残し、他の支城を廃絶する」(『公式参考書』136頁)というものだった。
この法令は主に西日本に対して出され、何百もの城が破却された。
また、幕末時代で城の変化があった。
それが洋式築城の導入である。
これは武田斐三郎が「西洋流土塁」を考案したことに始まる。
この洋式築造で最も有名な城と言えば五稜郭であり、この五稜郭を設計・建設したのは武田斐三郎である。
その他にも洋式築造の城は多数あり、明治時代に入ると
洋式要塞が日本各地に築かれるようになる。
これまで江戸時代の城を紹介してきましたが、
江戸時代は戦乱の世が落ち着いて、城のイメージはあまりないような時代に思われるが、
実は城の歴史を知るにあたってとても重要な時代であった。
明治時代
城の歴史について紹介してきましたが、いよいよ終盤に差し掛かり、
明治時代に入っていきます。
皆さんは明治時代に城が活躍したイメージはないかもしれません。
しかし、明治時代にも城は活躍しました。
例を言うと戊辰戦争や西南戦争で城が活躍した。
まず戊辰戦争で活躍した城といえば会津若松城であろう。
この城を舞台とした戦いが実際に明治時代に行われている。
続いて西南戦争で城といえば熊本城だ。
西南戦争で西郷隆盛が政府軍が籠城する熊本城を陥落できなかった。
この時西郷隆盛は「おいどんは官軍に負けたのではない、清正公に負けたのだ。」
という言葉を残したとされています。
以上のように戊辰戦争や日本最後の内戦西南戦争に至るまで城は戦いに使われた。
そして、明治時代に城の行方を左右するとても重要な法令がある。
それが廃城令(はいじょうれい)である。
廃城令とは「全国に残っている城の土地建物については、これまでは陸軍省所管財産であったが、
今後陸軍が軍用の財産として使用する城郭陣屋については存城処分(陸軍省所管の行政財産とする)とし、
それ以外の城郭陣屋については廃城処分として、大蔵省へと引き渡して普通財産に所管替えし、
売却用財産として処分する」(『公式参考書』162頁)というものである。
これにより全国の多くの城が取り壊された。
この廃城令によって、城の歴史はほとんど終了したと考えていいのではないだろうか。
それ以降の城について
廃城令以降、日本の城は取り壊されてしまったが、名古屋城や姫路城など数少ない城は残った。
そして名古屋城をはじめとして戦前の旧国宝にも24城が指定されました。
ここで城がようやく文化財として認められました。
しかし、せっかく廃城令を乗り越えた城たちも第二次世界大戦の際に多くが消失してしまいました。
戦いのために築かれた城ですが、時代が進むと戦いの役に立たなくなってしまうのは、
少し悲しいですね。
姫路城↓
まとめ
現代では戦いが無くなり城の本来の目的は果たせなくなってしまいました。
しかし、戦いがない現代でも城にはたくさんの魅力があります。
特にオススメなのは石垣ですね。
城によって様々な石垣があり、特に石垣に使われている石に注目してほしいです。
使われている石の形が違うんです。
石垣以外にもいろいろな魅力があり、ひとつひとつに城の歴史を感じることが出来ます。
現代でも城の歴史を感じることが出来るんですね。
また、山城からの景色はとてもいいものです。
皆さんも実際に城に訪れて、城の魅力を感じてみてはいかがでしょうか。
そうすれば城ないしは日本史にもっと興味を持てるのではないでしょうか。
小谷城からの景色↓
参考文献
加藤理文『よくわかる 日本の城 日本城郭検定公式参考書』、ワン・パブリッシング、2020年11月
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