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【入試対策】国共合作と国共内戦のまとめ その②【世界史】

みなさん、こんにちは!

武田塾折尾校です。

 

今回のテーマは

「国共合作と国共内戦」

です!

今回見ていく内容は

満州事変から中華人民共和国の建国までです。

「国共合作と国共内戦 その①」はこちらから!

国共合作と国共内戦

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国共合作と国共内戦について その②

満州事変

国民党と共産党が相争っていた頃、

満州で、ある事件が起こります。

「柳条湖事件」です。

柳条湖事件の事件現場

(柳条湖事件の事件現場 - 関東軍関係者? - 太平洋戦争研究会編『満州帝国』河出書房新社、1996年、59頁より転載, パブリック・ドメイン, Wikipediaより)

 

満州とは、現在の

中国東北地方のことです。

黒竜江省や吉林省、遼寧省が設置されており、

北朝鮮やロシア、モンゴルと国境を

接しています。

満州 地図

 

この事件は、当時、

国民党軍が鉄道を爆破した事件

日本国内で報道されていましたが、

実際は日本軍による自作自演でした。

 

ともあれ、この事件をきっかけに

日本軍は中国東北部に侵攻し、

各都市を占領していきます。

奉天に入城する日本軍

(奉天(現在の瀋陽)に入る日本軍 - 不明 - パブリック・ドメイン, Wikipediaより)

 

そして、1932年3月に

清王朝の最後の皇帝だった

溥儀を執政(国のトップ)として、

「満州国」という

国家を建国します。

溥儀

(満州国の国家元首 溥儀 - 不明 -パブリック・ドメイン, Wikipediaより)

満州国の国旗

(満州国の国旗 - Urmas - パブリック・ドメイン, Wikipediaより)

 

この柳条湖事件から

満州国建国に至るまでの

一連の事件を

「満州事変」と言います。

 

これに怒った国民党は

事件の発端となった柳条湖事件は

日本の仕業であることを

国際連盟に訴えます。

 

連盟側はこれを聞き入れ、

イギリスリットン伯爵をリーダーとする

「リットン調査団」を派遣します。

リットン調査団

(現場を調べるリットン調査団 - 不明 - パブリック・ドメイン, Wikipediaより)

 

調査団による1か月もの現地調査の結果、

日本の犯行であることが断定され、

国際的に「満州国」は否認されて

しまいます。

 

国際連盟は日本に対して、

満州から撤退することを勧告しますが、

日本側はこれを拒否。

同時に国際連盟から脱退して、

中国大陸への侵攻を本格化

させていきます。

国際連盟からの脱退

(日本の国際連盟脱退を知らせる新聞 - 不明 - パブリック・ドメイン, Wikipediaより)

 

日本国内でも

1932年に五・一五事件、

1936年に二・二六事件が起こり、

軍部の影響力は増していく一方でした。

五・一五事件の新聞

(五・一五事件発生を伝える新聞 - Osaka Asahi Shimbun - パブリック・ドメイン, Wikipediaより)

 

二・二六事件の反乱軍兵士

(二・二六事件の反乱軍兵士 - 不明 - 毎日新聞社「昭和史第7巻 二・二六事件前後」より, パブリック・ドメイン, Wikipediaより)

 

第二次国共合作

日本が積極的に

満州へ進出していた頃、

国民党は日本への対応よりも

共産党の掃討を優先させていました。

 

国民党としては

外部の敵(日本)よりも

中国大陸の統一を図りたかったと

考えられます。

 

国民党は共産党の本拠地である

瑞金を激しく攻撃し、

共産党は壊滅寸前にまで追いやられ、

延安へ落ち延びます。(「長征」)

長征の行程図

(長征の行程 - Guimardderivative work CC 表示-継承 3.0, Wikipediaより)

 

何とか体制を維持したい共産党は

1935年8月1日に

国共内戦の停戦、及び

日本に対抗する共同戦線の樹立

国民党に呼びかけます。

これが「八・一宣言」です。

 

しかし、国民党のトップである

蒋介石これを無視し、

共産党への総攻撃を軍に命令します。

蒋介石

(蒋介石 - 不明 - パブリック・ドメイン, Wikipediaより)

 

ところが、この命令は実行されませんでした。

現地の司令官を務めていた張学良

命令を握りつぶしていたからです。

 

張学良は元々、軍閥のリーダーでしたが、

降伏した後は国民党に参加していました。

 

日本軍の手によって、父である

張作霖暗殺されて以降、

国民党が戦うべき相手は

共産党ではなく、

日本であると張学良は考えていました。

 

そのため、日本に立ち向かうために

国民党が共産党と再び手を取り合う

状況を作り出そうと考えていました。

張学良

(張学良 - Central Archive Press - パブリック・ドメイン, Wikipediaより)

 

1936年12月、

蒋介石は命令が実行されないことに

腹を立て、張学良が陣を構える

西安に赴きます。

張学良に直接会って、命令を

実行させるためです。

 

これを好機と見た張学良は、

蒋介石を強引に拉致し、

共産党との極秘会談に連れていきます。

この事件を「西安事件」と言います。

 

この会談で共産党の代表を務めたのが、

後に中華人民共和国の首相となる

周恩来でした。

周恩来

(周恩来 - 不明 - パブリック・ドメイン, Wikipediaより)

 

周恩来は蒋介石を説得し、

国民党と共産党が協力して

日本と戦うことを決定させました。

 

この事件の結果、

「第二次国共合作」

成立し、大陸進出を目論む

日本との戦争を

共同で戦うことになります。

毛沢東と蒋介石

(祝杯をあげる毛沢東と蒋介石 - 不明 - パブリック・ドメイン, Wikipediaより)

 

日中戦争

1937年7月の

盧溝橋事件を機に

日本軍と中国軍は

戦争状態に入りました。

「日中戦争」です。

 

序盤から中盤にかけては日本軍が優勢で、

1937年12月までに中国北部に進出し、

北平(現在の北京)や南京などの

主要都市を次々に占領していきました。

日中戦争の日本の支配地域

(1940年の日本軍の支配地域(赤色) - U.S. Army - パブリック・ドメイン, Wikipediaより)

 

当時の中国政府は南京にありましたが、

日本軍の勢いの前に撤退せざるを得ず、

南京から武漢へ、

武漢から重慶へと

移動を繰り返し、抗戦しました。

 

中盤以降も日本軍優勢で進み、

上海などの中国東部は

日本軍によって占領されていましたが、

重慶などの中国西部は

持ちこたえていました。

大陸打通作戦

1944年の日本軍の支配地域(赤色) - U.S. Army - パブリック・ドメイン, Wikipediaより)

 

日本の進出を危機に感じていた

欧米諸国からの支援も続々と

中国側に届けられていました。

 

攻めあぐねる日本軍と

徹底抗戦する中国軍の戦いは

やがて泥沼化し、戦況は

膠着状態に陥ります。

 

日本側は戦局の打開のために、

重慶の中国政府の

正当性を貶めるべく、

南京に親日政権(南京国民政府)を樹立させますが、

中国国民の理解は得られず、

逆に反日感情を煽る結果となりました。

 

この時、南京の首班を務めたのが、

かつて国民党左派として

蒋介石ら国民党右派と争った

汪兆銘です。

汪兆銘

(汪兆銘 - 不明 - パブリック・ドメイン, Wikipediaより)

 

日本側は様々な手を使って

戦況を動かそうとしますが、

状況は好転せず、中国の後ろ盾だった

アメリカやイギリスに対しても宣戦を布告しました。

「アジア・太平洋戦争」の開戦です。

(当時の日本では「大東亜戦争」と呼ばれました。)

真珠湾攻撃

(真珠湾攻撃時の日本軍機 - Official U.S. Navy , パブリック・ドメイン, Wikipediaより)

 

しかし、この戦争も

中国の戦況に良い影響は与えず、

逆に日本の首を絞める結果となってしまいました。

 

1945年8月に日本は敗戦し、

日中戦争は中国側の勝利で幕を下ろします。

降伏文書調印 重光葵

(降伏文書に調印する日本全権大使 重光葵 - Army Signal Corps photographer LT. Stephen E. Korpanty - パブリック・ドメイン, Wikipediaより)

 

第二次国共内戦、中華人民共和国の成立

日中戦争の終結後、

日本という共通の敵を失った

国民党と共産党は、

再び大陸の覇権を相争うようになります。

 

一旦はアメリカの仲介によって、

「双十協定」という和平協定を結ぶも、

最終的な解決には至りませんでした。

双十協定

(双十協定の文書 パブリック・ドメイン, Wikipediaより)

 

当初は国民党優勢で進んでいましたが、

共産党は得意のゲリラ戦術で

国民党軍を疲弊させる手に出ます。

 

日中戦争で主力となり続けた国民党軍には

もはや戦い続ける余力は残っておらず、

せっかく占領した都市も次々と

共産党の手に渡っていきました。

 

そして、1949年10月に

大陸の大部分を掌握した共産党は

国民党の「中華民国」に代わり、

「中華人民共和国」の建国を

世界に向けて宣言します。

中華人民共和国建国を宣言する毛沢東

(建国を宣言する毛沢東 - Hou Bo 侯波回忆:我在天安门城楼拍摄开国大典(图)(1) - パブリック・ドメイン, Wikipediaより)

 

国際的にも中華人民共和国が代表権を取得し、

国民党(中華民国)は世界各国から

国交を断絶されてしまいます。

 

覇権争いに敗れた国民党は

大陸の拠点を放棄し、

台湾へと逃れます。

 

共産党は台湾をも手中に

収めようとしますが、

チベットへの侵攻朝鮮戦争などへの

対応に追われてしまい、

実現することはありませんでした。

朝鮮戦争の人民志願軍

(朝鮮戦争で戦う中国義勇兵 - パブリック・ドメイン, Wikipediaより)

 

2022年現在も、

中国大陸と台湾との間には

緊張状態が続いています。

 

まとめ!

ここまで「国共合作と国共内戦」

についてお話ししてきました!

ここでおさらいをしましょう!

 

【1930年~1949年までの中国】

満州事変

西安事件

第二次国共合作

日中戦争

第二次国共内戦

中華人民共和国 建国

 

 

 

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