みなさん、こんにちは!
武田塾折尾校です。
今回のテーマは
「国共合作と国共内戦」
です!
今回見ていく内容は
国民党・共産党の結党から第一次国共内戦までです。
折尾校公式Twitter始めました!
フォローしてもらえると嬉しいです!
国共合作と国共内戦について
中国国民党・中国共産党
「中国国民党」とは、
1919年に孫文らが作った政党です。
孫文は、1911年の「辛亥革命」で
清王朝の打倒に大きく貢献した人物です。
(孫文 - パブリック・ドメイン, wikipediaより)
(中国国民党の党旗 - 陸皓東 - パブリック・ドメイン, wikipediaより)
これに対して、「中国共産党」は
1921年に陳独秀らが、
ソ連の支援を受けて作った政党です。
陳独秀は、雑誌『新青年』を創刊し、
「新文化運動」の旗手として活躍した
人物です。
(陳独秀 - パブリック・ドメイン, wikipediaより)
(中国共産党の党旗(1921年~1996年)- Ericmetro - パブリック・ドメイン, wikipediaより)
両党が結成された当時は、
第一次世界大戦終結直後で、
日本が中国への圧力を強めていた時期でした。
日本が当時の政府(北京政府)に突き付けた、
「二十一か条の要求」は有名ですね。
この要求に反発した民衆の中で
「五・四運動」が展開されますが、
この運動に呼応する形で両政党は作られました。
(五・四運動で天安門広場に集まる民衆 - パブリック・ドメイン, wikipediaより)
両政党とも、民衆による中国の自立を目指し、
「軍閥」や「北京政府」といった
支配者層の打倒を目指します。
「軍閥」とは、地方の有力者のことで、
武力によって地方を支配しており、
日本や欧米諸国の支援を受けていました。
(軍閥の勢力図(赤色) - U.S. Army - パブリック・ドメイン, wikipediaより)
「北京政府」とは辛亥革命達成後に
作られた政府のことですが、
軍閥によって支配されていました。
どちらも国民党・共産党から見れば
目標達成を妨げる要因だったために
打倒の対象となりました。
第一次国共合作
国民党と共産党は
民主主義と社会主義という
思想の違いこそあれど、
目指すところは同じでした。
そこで当時、国民党を率いていた
孫文はソ連から顧問を迎え入れ、
1924年に「連ソ・容共・扶助工農」
というスローガンを発表し、
共産党への歩み寄りを見せました。
共産党も、これに理解を示し、
共産党員が国民党にも所属する形で、
協力関係を結びました。
これが「第一次国共合作」です。
翌年の1925年3月に
孫文は病死しますが、
工場労働者によるストライキをきっかけに
「五・三〇運動」という
デモ活動が全国的に広がり、
国共合作体制の後押しとなりました。
(五・三〇運動を風刺したポスター - , パブリック・ドメイン, wikipediaより)
後押しを受けた国民党は
広東省の広州という場所で
「広州国民政府」を樹立し、
戦闘態勢を整えました。
そして1926年には、遂に
中国全土の統一を目指して
「北伐」が開始されます。
(北伐の進路 - Goran tek-en, CC 表示-継承 4.0, wikipediaより)
北伐は順調に進み、
1927年の3月には
上海と南京を占領することに
成功しました。
中国の主要都市である
上海と南京を占領したことにより
国民党と共産党による
大陸統一は、もう間もなくという
所まで来ていました。
国民党同士による身内争い
しかし、国民党内では
「国民党右派」と
「国民党左派」&「共産党員」に分かれて
対立が深まっていました。
「右派」というのは「保守派」を示し、
孫文の教えを忠実に守り、
国民党だけで革命を達成しようとする
人たちのことです。
右派グループには国民党軍(北伐軍)の
司令官だった蒋介石がいました。
(蒋介石 - 不明 - パブリック・ドメイン, wikipediaより)
「左派」というのは、「革新派」を示し、
様々な考えを受け入れ、共産党とも
仲良くしたいと思う人たちの
ことです。
左派グループには、のちに
日本と協力して日中戦争を戦うことになる
汪兆銘がいました。
(汪兆銘 - 不明 - パブリック・ドメイン, wikipediaより)
対立が深まった結果、
本部としての機能を持っていた
国民政府すら分裂し、
右派の南京国民政府と
左派の武漢国民政府に
分かれてしまいます。
そして、1927年4月には、
遂に右派グループによって
国民党左派&共産党員の
弾圧・粛清が開始されます。
「上海クーデター」と呼ばれるこの事件の影響で、
北伐は一時中断され、
しばらくは国民党内部での権力闘争となります。
(連行される共産党員 - 不明 - パブリック・ドメイン, wikipediaより)
しかし、ソ連から招いていた顧問が
共産党による国民党の乗っ取りを
計画していたことが発覚します。
左派はこれに激怒し、
ソ連の顧問を国外退去させ、
右派と合流し、共産党の排除を宣言します。
これにより、状況は
国民党内部の争い
↓
国民党vs共産党へと
移ります。
第一次国共内戦
国民党と共産党は
各地で相争いますが、
軍事の近代化を進めていた
国民党の方が圧倒的に
優勢でした。
現時点では勝てないと悟った共産党は
農村を中心に勢力を強化する方針に
転換し、1931年に瑞金という場所で
「中華ソヴィエト共和国臨時政府」を
樹立し、拠点を築きます。
この時、共産党を率いていたのが
若き日の毛沢東です。
(毛沢東 - неизвестный - , パブリック・ドメイン,wikipediaより)
一方、国民党は1928年4月に北伐を再開し、
残りの軍閥の制圧と北京政府の打倒を目指します。
2か月後には国民党軍は北京に到達し、
北京の占領及び北京政府の打倒に成功します。
この戦いで敗北した、
北京政府軍の司令官、張作霖は
北京から本拠地の奉天(現在の瀋陽)に
落ち延びようとしますが、
列車での移動中に日本軍によって
暗殺されてしまいます。
(張作霖爆殺事件)
(張作霖 - 不明 - パブリック・ドメイン, wikipediaより)
(爆殺事件の現場 - carpkazu - パブリック・ドメイン, wikipediaより)
張作霖は奉天軍閥のリーダーでも
ありましたが、
国民党に歩み寄ろうとする
姿勢を見せたことが
日本側の怒りを買い、
暗殺されたと言われています。
同年12月には、張作霖の後を継いだ
張学良率いる奉天軍閥が
国民党に降伏し、
軍閥の制圧も完了します。
(張学良 - Central Archive Press - パブリック・ドメイン, wikipediaより)
こうして、北伐は2年という短い期間で
一応の達成となりました。
北伐を達成した国民党は
共産党の掃討に移ります。
序盤から中盤にかけては
ゲリラ戦術を展開した
共産党が勝利を収めましたが、
終盤にさしかかると
国民党が共産党の本拠地である
瑞金の包囲に成功し、圧倒的な武力で
これを打ち破ります。
多数の兵力を失った共産党は
瑞金を放棄し、新たな拠点を
探しながら国民党と戦います。
これを「長征」と言います。
共産党が移動した距離は、なんと
1万2500km。
現在の日本の領土が、北から南まで
約3000kmなので、
それを2往復した距離より
長い距離を徒歩で移動していました。
(長征の行程図 - Guimardderivative work, CC 表示-継承 3.0, wikipediaより)
とてつもなく長い距離の移動を経て、
共産党は、ソ連との国境にほど近い
延安という場所に落ち着きます。
まとめ!
ここまで「国共合作・国共内戦」
についてお話ししてきました!
ここでおさらいをしましょう!
中国国民党(民主主義)
→孫文らが設立
中国共産党(社会主義)
→陳独秀らが設立
第一次国共合作
↓
北伐開始
↓
上海クーデター
↓
第一次国共内戦
ちなみに折尾校では、
この記事でご紹介した以外にも
受験に役立つ情報をたくさん教えています。
ブログを見てくださっていて、
「受験対策をもっと詳しく知りたい!」
という方は、
「無料受験相談」というものを行って
おりますので、下にあるフォームから
お問い合わせください!
受験に関することであれば、
誠心誠意対応させて頂きますので、
お気軽にどうぞ!!
ここまで読んでいただきありがとうございます!
悩める受験生が報われることを願っております。
武田塾折尾校
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
合わせてどうぞ
武田塾では、九州大学や九州工業大学、北九州市立大学などの福岡県内の国公立大学を始め、東京大学、京都大学、一橋大学、大阪大学、東京工業大学、東京医科歯科大学、北海道大学、東北大学、お茶の水女子大学などの最難関国公立への逆転合格者を多数輩出しています。
また私立大学では、地元の西南学院大学、福岡大学はもちろん、早稲田大学、慶應義塾大学、上智大学、東京理科大学、明治大学、青山学院大学、立教大学、中央大学、法政大学、学習院大学、関西大学、関西学院大学、同志社大学、立命館大学などの超有名私立大学への進学者も多数います。
関東や関西地区で広まっている武田塾だからこそ、地元進学者以外にも手厚いサポートや、合格カリキュラムの作成が行えます。
他の塾や予備校にはない、武田塾の個別サポートシステムを利用して一緒に合格を目指しませんか?
******************
武田塾 折尾校
〒807-0825
福岡県北九州市八幡西区折尾1-14-5
安永第一ビル2F
TEL:093-616-8400
FAX:093-616-8401
******************