みなさん、こんにちは!
武田塾折尾校です。
今回は「モンゴル帝国」
についてまとめてみました!
時代は13世紀~14世紀ごろの
お話しになります。
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モンゴル帝国について
モンゴル帝国はどのようにできたの?
初代:チンギス=ハン
モンゴル帝国(大蒙古国)は
13世紀~14世紀にかけて、
東・西アジアの大部分を
支配していた国です。
最初はモンゴル高原の一部族に
過ぎませんでしたが、
テムジンという人物が登場してから
状況は一変します。
テムジンはモンゴル高原の
諸部族を統一し、
部族会議(クリルタイ)において
「ハン(部族の長の意味)」
の称号を与えられます。
これ以降、テムジンは
チンギス=ハンと
名乗ります。
(チンギス=ハン - Wikipediaより - パブリックドメイン)
モンゴル部族全体の長となった
チンギス=ハンは、
積極的に勢力を
拡大していきました。
中央アジアのナイマン族、
イランのホラズム・シャー朝、
中国北西部の西夏を倒し、
あっという間に巨大な帝国を
築きます。
この快進撃の秘密は
千戸制(ミンガン)
にあります。
これは1000人の兵士とその家族を
1グループとして一緒にまとめるシステムです。
日本で言えば、町内会みたいなものです。
こうしておけば、
戦争の時にいちいち募集しなくても、
素早く人を集めることができます。
平和な時にも、上の決め事を
隅々まで知らせることができます。
軍事と行政を一体化させ、
国民同士のつながりが強いことが
モンゴル帝国の強さでした。
2代目:オゴタイ=ハーン
病死したチンギス=ハンの後継者として
リーダーの座についたのが、
チンギス=ハンの3男である
オゴタイ=ハーンです。
(オゴタイ=ハーン - Wikipediaより - パブリックドメイン)
オゴタイ=ハーンは
お父さんの意思を受け継いで、
積極的に領土拡大していきます。
1232年に中国北部の金を滅ぼし、
ヨーロッパや中央アジアにも
積極的に進出しました。
甥っ子のバトゥは
ワールシュタットの戦い(1241年)で
ドイツ・ポーランド連合軍を破り、
後に「タタールのくびき」と言われる
支配体制を構築していきます。
(ワールシュタットの戦い - マテウス・メーリアン - パブリックドメイン)
ロシアのキエフ公国を征服して、
キプチャク=ハン国(1243~1502)
の基礎を築いたのもバトゥです。
オゴタイのお兄さんである
チャガタイは中央アジアに進出し、
チャガタイ=ハン国(1227~1340)を作りました。
領土拡大だけでなく、
内政にも力を入れました。
モンゴル高原にあるカラコルムを
帝国の首都として定め、
帝国全体にはジャムチとよばれる
駅伝制を整備して、
交易・交通路を発達させました。
また、
金にあった通貨制度(交鈔)を
モンゴル帝国に導入し、
銅不足に悩まされていた
帝国の財政事情の改善にも取り組みました。
(交鈔 - Wikipediaより - PHGCOM - 投稿者自身による作品,
photographed at Tokyo Currency Museum)
このように、
お父さんが築いた帝国の基礎を受け継ぎ、
大帝国に押し上げたのは
オゴタイ=ハーンによる功績であると
言えるでしょう。
3代目:グユク=ハン
オゴタイ=ハーンが1241年に病死すると、
モンゴル帝国はしばしの間、
トップ不在の時期となります。
この間は遠征軍が頑張り、
ルームセルジューク朝
グルジア王国
アルメニア王国などを
支配下に置きます。
中央では王座をめぐるいざこざを経て、
オゴタイの息子のグユクがハンになります。
(グユク=ハン - Wikipediaより - 不明 - http://old.news.mn/r/276459)
この時の即位式にはカトリック使節の
プラノ・カルピニが参加してます。
しかし、グユク=ハンは
大酒飲みで身体が悪かったため、
即位後わずか2年で病死します。
4代目:モンケ=ハーン
グユク=ハンの死後、
王となったのは従兄弟の
モンケでした。
(モンケ=ハーン - Wikipediaより - 不明 - http://old.news.mn/r/276459)
モンケの治世の時に
起こった出来事と言えば、
アッバース朝の滅亡(1258年)が
挙げられます。
この時のアッバース朝は
イスラーム世界において権力が無く、
いわば「お飾り」の状態でした。
もちろん、モンゴルの勢力に
立ち向かえるほどの実力は無く、
首都のバグダードも徹底的に
破壊されてしまいます。
(バグダードの戦い - Wikipediaより - Sayf al-vâhidî et al. - Bibliothèque nationale de France, Département des Manuscrits,
Division orientale, Supplément persan 1113, fol. 180v-181, パブリック・ドメイン)
この戦いで現場の指揮を執ったのは
モンケの弟にあたる
フラグです。
フラグはその後、遠征先に留まり、
イル=ハン国を作ります。(1258年~1353年)
フラグの尊称がイル=ハンだったので、
イル=ハン国という名前です。
フランスの使節として
ルブルックがカラコルムに訪れたのも
モンケ=ハーンの治世の時です。
皇帝としては非常に有能な
モンケ=ハーンでしたが、
即位後わずか8年で病死してしまいます。
5代目:フビライ=ハーン①
モンケの次に皇帝となったのが、
モンケの弟のフビライです。
(フビライ=ハーン - Wikipediaより -アラニコ - current version
YuanEmperorAlbumKhubilaiFull.jpg, パブリック・ドメイン)
フビライの治世は初代~5代の中で
最も長く続きました。
フビライが皇帝として
最初に行ったことは
大都への遷都です。(1264年)
今の北京のことです。
モンゴルのカラコルムから
中国の大都へ首都を移すことで
中国大陸への影響力を高めようとしました。
また、公用語であるモンゴル語を
書くための文字として
パスパ文字を作りました。(1269年)
(パスパ文字 - Wikipediaより - 不明 - http://www.babelstone.co.uk/Phags-pa/Overview.htmlscanned from Pozdneyev, Alexei Matveevich (1851-1920). Лекціи по исторіи монгольской литературы, читанныя въ 1896/1897 акад. году . St. Petersburg, 1897., パブリック・ドメイン)
モンゴル帝国で国師(偉いお坊さん)だった
パスパ(パクパ)が作ったので
パスパ文字です。
1271年には国名を
「元」とし、
いよいよ
中国大陸制覇に乗り出します。
この頃のモンゴル、
中国大陸の大部分は
手に入れていましたが、
南部の方は
未だ南宋の支配下にありました。
(元と南宋 - 「ワールド・ヒストリカル・アトラス」より)
南宋は日本の鎌倉幕府と
国交を結んでおり、
経済・文化交流が盛んでした。
そこでフビライは日本に目を付け、
日本を従わせることによって、
南宋の弱体化を図りました。
これが日本史で言うところの
「元寇」です。
(文永の役 1274年)
(竹崎季長とモンゴル兵 - 『蒙古襲来絵詞 前巻』,パブリック・ドメイン)
しかし、ご存じの通り、
これは失敗に終わります。
なので今度は、
南宋を直接攻略する方向に
シフトします。
降伏した敵は丁重にもてなし、
抵抗した敵は容赦なく滅ぼすという
「アメとムチ」を使いこなして
南宋の兵を次々に従えます。
そして、
1276年に南宋の首都 臨安を攻め落とし、
1279年に南宋を完全に滅ぼします。
これでようやく元は
中国大陸制覇を成し遂げました。
ちなみに、「東方見聞録」を書いた
マルコ・ポーロが大都に来たのも
この頃のお話です。(1275年)
(マルコ・ポーロ -Wikipediaより - Salviati
http://urbanesalonanddayspa.com/15fa8o-marco-polo.org-cheap, パブリック・ドメイン)
5代目:フビライ=ハーン②
中国大陸を制覇した後、
元は他の地方に積極的に
進出しようとします。
しかし、
2度目の日本侵攻(弘安の役 1281年)や
3度のベトナム侵攻(1258,1287,1288年)、
ジャワ島への遠征(1292年)は
失敗に終わります。
ビルマ(今のミャンマー)のパガン朝
を征服することには成功しました(1287年)が、
後に反乱を起こされています。
このように中国大陸制覇後は
対外進出はあまり上手くいきませんでした。
国内では身内によるクーデターが起こり、
その対応に追われるうちに
フビライ=ハーンは病死してしまいます。
フビライの死後①
フビライの死後は
孫のテムルが後を継ぎ、
反乱続きだった元をなんとか
立て直します。
分裂状態にあった国内を鎮めることに
成功した元は一時の平和を
ユーラシア大陸にもたらしました。
(「パクス=モンゴリカ」)
文化が発展したのもこの頃です。
元は宗教に非常に寛容で、
イスラーム教やキリスト教、
道教や仏教などの様々な宗教が
迫害されることなく
共存していました。
カトリックの宣教師である
モンテ=コルヴィノが大都に到着し、(1394年)
カトリックを布教し始めたのも
この時代でした。
また、この時代に
羅針盤・印刷術・火薬が
シルクロードを通って
西アジア、そしてヨーロッパへと
伝わっています。
人の往来も盛んで、
ムスリム商人や白人、
色目人(中央・西アジア出身者)、
漢人(旧金朝の人々)や南人(旧南宋の人々)など、
様々な人種と
様々な職業を持つ人が
行き来していました。
1346年には偉大な旅行家の一人、
イブン=バットゥータが大都を訪れています。
フビライの死後②
しかし、平和な時代は
長くは続きませんでした。
フビライの後を継いだテムルが
後継者を遺さずに病死すると
元は後継者争いの時代に突入します。
新しく皇帝を立ててもすぐに殺され、
別の皇帝が立てられました。
混乱続きの元に業を煮やした民衆は
ついに反乱を起こします。
反乱を起こした民衆は
赤い布を目印としました。
これが「紅巾の乱」です。(1351~1366年)
この紅巾の乱を主導したのは
白蓮教という宗教結社なのですが、
後の世でも反乱の原動力となります。
(清朝の白蓮教徒の乱、義和団の乱など)
反乱を受けた中央政府は
これ以上の統治は不可能と判断し、
旧都のカラコルムに
落ち延びて「北元」となります。
空白となった中国大陸では
朱元璋(洪武帝)という人物が
「明」という王朝を建てました。
(1368年~1644年)
(朱元璋(洪武帝 - Wikipediaより - 明朝画师 -
https://nchdb.boch.gov.tw/embed/assets/overview/antiquity/20171121000006, パブリック・ドメイン)
他地域のモンゴル帝国も
衰退していきます。
中央アジアでは、
チャガタイ=ハン国に仕えていた
軍人のティムールが頭角を現し、
チャガタイ=ハン国と
イル=ハン国だった土地に
ティムール朝(1370年~1507年)を作ります。
(ティムール - Wikipediaより - 不明 -
Пугаченкова Г. А., Ремпель Л. И. История искусств Узбекистана с древнейших времен до середины XIX в. М., 1965,
パブリック・ドメイン)
ヨーロッパ方面では、
キプチャク=ハン国が統治能力を失い、
いくつかの国に分裂します。
(カザン=ハン国、シビル=ハン国など)
後に、イヴァン3世(イヴァン大帝)率いる
モスクワ大公国(1263年~1547年)に敗れるなどして
現地の勢力に盛り返され、
モスクワ大公国、
その後のロシア・ツァーリ国(1547年~1721年)に
主導権を譲り渡すこととなります。
(イヴァン3世 - Wikipediaより - H.F. Helmolt -
Copied from University of Texas Portrait Gallery.,パブリック・ドメイン)
まとめ!
ここまで「モンゴル帝国」
についてお話ししてきました!
ここでおさらいをしましょう!
・モンゴル帝国は
13世紀から14世紀の大帝国!
・歴代皇帝は
チンギス=ハン
オゴタイ=ハーン
グユク=ハン
モンケ=ハーン
フビライ=ハーン
・元
キプチャク=ハン国
チャガタイ=ハン国
イル=ハン国
の4つの国で構成されていた!
・元にとどめを刺したのは
紅巾の乱!
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