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新一万円札の渋沢栄一って何した人?どんな人物なのか簡単に説明します!【大泉学園駅の塾・予備校】

新一万円札の渋沢栄一って何した人?どんな人物なのか簡単に説明します!

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みなさんこんにちは!武田塾大泉学園校です。

 

3年後の2024年の上半期に紙幣が刷新されることが発表されました。

紙幣が新しくなるのは約20年ぶりのことだそうです。

新たな紙幣では、千円札が野口英世から北里柴三郎に、

五千円札が樋口一葉から津田梅子に、

そして一万円札が福沢諭吉から渋沢栄一へと変わります。

 

今回の記事では、新しく一万円札の顔となった渋沢栄一について解説しています。

渋沢栄一は、日本史でも頻出の重要人物ですので、

この機会にしっかりと覚えてしまいましょう。

 

プロフィール

生年月日:1840年3月16日

生まれ:現埼玉県深谷市血洗島

死没:1931年11月11日・現東京都北区西ヶ原

職業:幕臣・官僚・実業家・教育者

 

何をしたの?

渋沢栄一は数多くの企業の設立に関わり、

「日本の資本主義の父」と呼ばれています。
約500の企業を育て、約600の社会公共事業に関わった人物で、

幕末から昭和までを駆け抜け、「士魂商才」を説いた、時代の先駆者です。

また、大河ドラマ「青天を衝け」の主人公としても、話題ですね。

3-1. 渋沢栄一の軌跡

渋沢栄一は、1840年に埼玉県深谷市血洗島(ちあらいじま)で、

農民として生まれました。
当時の日本は鎖国状態にありましたが、1853年ペリー来航により、

幕府が開国。
多くの外国人が、日本に入ってきました。
青年期、江戸に遊学中、尊王攘夷思想の影響を受け、

倒幕計画を立てましたが、直前で中断し、

京都へ向かったといわれています。

そして、一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)に仕える平岡円四郎に出会い、

一橋家に士官しました。
その後、一橋慶喜は徳川幕府第15代将軍に、

渋沢栄一は弟の徳川昭武に随行し、万博博覧会への参加、

留学するため、フランスのパリへ渡航しました。

渋沢栄一は西欧の文明に驚き、

日本の近代化についても必要性を感じました。
このとき、感銘を受けたとされているのは下記です。

  • 汽車などの交通機関
  • 新聞の存在
  • 五色のガス灯に飾られた都市の夜景
  • 上下水道、電信装置の整備
  • すべての病人が治療を受けられる清潔な病院
  • 西欧の金融・紙幣制度
  • 紙幣を集めて営利事業を営む「銀行」の存在

 

渋沢栄一が欧州へ渡っている頃、

日本では、徳川慶喜が政権を天皇に返上する「大政奉還」が行われていました。

それに伴い、渡航後約1年半で1868年に徳川昭武と共に帰国。

徳川慶喜は静岡で謹慎生活を送っていたため、栄一は会いに行き、

そのまま静岡藩で働くことに。

静岡藩の勘定組頭となった渋沢栄一はフランスで学んだ知識を生かし、

静岡藩の資本を元本にして、商社と銀行を合わせた「商法会所」を立ち上げました。

商法会所は、

藩が政府から借りた「石高拝借金」と「商人の出資」を資本金として、

お茶・養蚕・米などの生産に必要なものを買う資金の貸し付けを行ったり、

肥料や製品を買い取るためにも使いました。
誰でも出資することができ、出資金額は自由。

そして商法会所に利益が出れば、出資金額に応じて配当金が出されます。

「商法会所」は日本で初めての株式会社といわれています。

静岡で商業をさらに盛んにしていこうとしていく中、

その手腕を買われ、商法会所を設立した年、

渋沢栄一は大隈重信に説得され、民部大蔵両省で働くことに。

鉄道の敷設、富岡製糸場(官営模範工場)の設置、

郵便制度の創設、度量衡の統一、

租税改革、新貨幣制度の設置、国立銀行条例など、

矢継ぎ早にさまざまな仕事を手掛けていきます。
近代社会の形成に勤しむ中、

官ではなく民として日本の経済発展に寄与することを決意し、

1873年には政府を辞職し、民間実業家へとなります。

3-2. 渋沢栄一の功績

民間実業家となった渋沢栄一は、

様々な企業を立ち上げ、日本経済の発展に取り組みました。
最初に着手したのが「第一国立銀行(現:みずほ銀行)」の設立です。

「国立銀行」と聞くと国が経営する銀行のイメージですが、

アメリカの「national bank」の直訳であり、国が設立し経営した銀行ではありません。

その他にも、国家や社会のための「公益」を追求する考えから、

より良い社会の実現のために、様々な業種の会社を設立しました。

【渋沢栄一が設立に関与した企業一例】

  • 東京海上保険(現:東京海上日動)
  • 東京瓦斯(現:東京ガス)
  • 大阪紡績(現:東洋紡)
  • 東京株式取引所(現:東京証券取引所)
  • 王子製紙(現:王子ホールディングス)
  • 東京ホテル(現:帝国ホテル)
  • 日本鉄道会社(現:東日本旅客鉄道)
  • 共同運輸会社(現:日本郵船)
  • 東京電灯会社(現:東京電力ホールディングス)など

国づくりには教育の発展も重要だと考え、

「一橋大学」「東京経済大学」などの学校設立にも力を注ぎました。

パリ留学などで女性が活躍している様子を見かけていたこともあり、

女子教育の必要性も感じ「日本女子大学」「東京女学館」を設立。

さらには、経済の発展だけでは格差はなくならないと感じ、

生活困窮者、障がい者、孤児といった人たちのため、社会公共事業にも力を入れるようになりました。

そこで、「東京養育院」「東京慈恵会」「日本赤十字社」の設立に貢献してきます。

 

日本史の頻出事項

渋沢栄一は、日本史の教科書にも登場します。

そのため、当然入試問題として問われることも多々あります。

特に、新紙幣の発行が近づくにつれて、

入試問題で取り扱われる頻度はあがっていくでしょう。

ここで渋沢栄一がらみの日本史の頻出事項をまとめて覚えましょう。

明治5(1872年) 国立銀行条例

国立銀行について定めた太政官布告です。

この条例では、民間の力を借りて、金貨と交換可能な兌換銀行券を発行しようとしました。

明治6(1873)年 第一国立銀行の設立

近代的な貨幣制度に基づき、信用ある貨幣を流通させるため、明治6(1873)年、日本最初の銀行・第一国立銀行が設立されました。「国立」とは「政府が定めた国立銀行条例に準拠」する銀行という意味で、資本や経営は民間の合本組織でした。総監役に就いた栄一は、銀行を軌道にのせると、日本に必要な事業を会社組織として立ち上げ、育成支援していきます。その際、栄一は私利私欲のためではなく、国家や社会のための「公益を追求する」という考えを理念とし、鉄道やガスといったインフラ事業などにも携わりました。

明治15(1882年) 大阪紡績会社の設立

渋沢栄一といえば、国立銀行設立のイメージが強いかと思いますが、実は他にも大阪紡績会社という会社の設立もしています。この会社は一万錘規模の最新で最大の紡績所でした。少しマニアックな知識ではありますが、難関大学はこういった知識まで聞いてくるので覚えておきたいですね。ちなみにこの会社は民間で初の紡績工場でもあります。操業は翌1883年から始まりました。

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武田塾大泉学園校 卒業生の声

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Q

武田塾に入ってから勉強法や成績がどのように変わりましたか?

 

 

A

☆決められた期間内に決められた参考書を決められた学習方法でこなすだけで、

自然と成績は伸びていきました。

 

 

☆多くのものに手を付けずひとつひとつの参考書を徹底的に取り組むようになったことで、

自分にとって何ができないのかを可視化することができるようになった。

 

 

☆困ったり悩んだりしたときは、

その都度先生に進捗状況を話してやり方を提供してもらったりして、

ただやり続けるという習慣を変えられたと思います。

 

 

☆参考書を今まで全部やったことがなかったけど、何週もすることで

こんなにもちゃんと試験で使えるようになるんだと実感しました。

 

 

☆一週間のうちにやったことを一回だけでなく二回、

三回と復習してまたさらに確認テストでも復習することが出来た。

その結果やった問題がテストで出たらしっかりと得点していくことが出来るようになった。

 

 

☆現役の時に中途半端だった基礎を理解したうえで

人に説明できるくらいまで自分のモノにすることがを意識しました。

そうすると、

過去問などの問題に対するアプローチが増え、

成績もどんどん上がっていきました。

そして本番には余裕をもって望むことができ、余裕をもって合格することが出来ました。

 

 

☆勉強しない日が減りました。

 

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☆ほとんど勉強しなかった私が、計画的、効率的に勉強するようになりました。

それは週一回確認テストがあり誤魔化すことができなかったからです。

そのテストで8割以上の点数が取れないと先へ進めないことは、

私にとっていい意味でプレッシャーとなり、

モチベーションが下がった時期でも勉強を続けることが出来ました。

 

 

☆4日進み2日復習、最後の1日は塾に行き、

テストをして先生にみていただくという流れが基本で、

これを続けた結果、

6月の英語の模試が40点台だった成績が9月のは60点台、

11月には80点台と15~20点ずつ上がり、

偏差値も10~15程度上がりました。

 

 

☆英単語の覚え方を武田塾のオススメの方法に変えたら

すさまじく語彙力がつき、

先生に呼び出されるレベルから

最終的に学校の語彙テストの優秀者ランキングに載れるくらいになった。

 

 

☆毎日勉強する習慣がつきました。

 

 

☆時間管理が少しずつですができるようになりました。

思い立ったら勉強するの連続でしたが、

前もって勉強する時間帯をきめて効率的にできることが多くなりました。

 

 

☆勉強法はとにかくひたすら復習でした。

武田塾は毎日、

一日の勉強内容がはっきりと指定されているので、

何から手を付けたらよいのか等、

迷うことがなく勉強に集中できました。

一週間で何度も何度も同じページの復習をすることで、

自分の力へとつながったと思います。

 

 

☆成績はもちろんすぐ簡単に結果は見えてきませんでしたが、

だいたい秋くらいに、

本当にV字のように成績に変化がありました。

 

 

☆武田塾にはいってからは一日にしなければいけない

ノルマを決めてもらえるので

それ以前のようにダラダラ過ごす時間が少なくなりました。

また毎週テストをしてもらえるので、

自分がどれくらいできるようになったのかがわかりやすく、

自分の弱点やどこが抜けているのかなども都度確認できました。

 

 

☆英語が一気に得意科目になりました。

 

 

☆勉強法も常に同じではなく、

講師方と相談して、

自分の間違った勉強法にならないように

アドバイスをたくさんもらいました。

自学自習の癖をつけることができました。

 

 

☆参考書で中途半端に終わらせることがなくなり、

実力が着実についているのが実感できました。

 

 

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