流山は近藤勇と土方歳三の別れの地
鳥羽伏見の戦いの後、近藤勇が結成した甲陽鎮撫隊277名が集結したのが流山です。
流山は新政府軍に自首した近藤勇と会津へ向かう土方歳三の別れの地となりました。
- 激動の明治元年(慶應4年)
明治元年/慶應4年(1868年)、鳥羽伏見の戦いで近藤勇負傷、土方歳三が指揮を執る。
鳥羽伏見の戦いに敗れた近藤と土方は富士山丸で江戸に戻る。
その後の近藤勇の足跡から始めましょう。
≪江戸に戻った近藤勇と土方歳三≫
2月28日、新選組は甲陽鎮撫隊と改名、近藤勇は大久保剛と改名。
3月1日、甲府へ向かう。
3月6日、甲州勝沼の戦いで板垣退助率いる迅衛隊に敗れ敗走。
五兵衛新田(東京都綾瀬)に集結して隊を再編成。
近藤勇はさらに大久保大和に改名する。
≪流山の近藤勇と土方歳三≫
4月1日、流山の光明院・流山寺に277名が分宿、近藤・土方は長岡七郎兵衛宅に本陣を構える。
4月2日、新政府軍が糟壁(春日部市)に至り、流山の背後を衝くという情報が入る。
4月3日、越谷の新政府軍本営に出頭。大久保で貫き通したが近藤であると看破され捕縛された。
(4月11日、江戸城無血開城)
≪その後の近藤勇、土方歳三、沖田総司≫
4月25日、近藤勇、板橋刑場にて斬首。京の三条河原に晒される。享年35歳(満33歳)。
5月30日、沖田総司病死
翌、明治2年5月11日、土方歳三五稜郭にて戦死。
- 大久保大和は近藤勇の偽名ではない
罪を逃れるために偽名を使ったと言われ続けて来ました。
でも大久保姓を名乗ったのは2月からです。
その前年に300石の見廻組与頭格として幕臣になります。
江戸帰還後に役石350俵の勘定組頭として甲州鎮撫を任ぜられたのです。
待望の幕臣になれたのですから、改名するのは余の常です。
新選組の近藤勇から正式な幕臣の大久保剛となり、甲州鎮撫のための甲陽鎮撫隊を結成しても何の不思議もありません。
- 出頭は自首ではなく弁明だった
4月2日の新政府軍が背後を衝くという情報を得て、3日に新政府軍の東山道総督府軍に出頭したのは自首ではありません。
流山へ出向いたのは「甲陽鎮撫隊を率いて流山に来たのは、農民一揆と脱走兵取り締まりのためであり、自分は勘定組頭の大久保大和だ」と具申しています。
わざわざ元新選組の近藤勇だと名乗って混乱を引き起こす必要もなく、事実のままに釈明すれば戦禍を避けられると思ったのでしょう。
- 流山の住民を守るためではなかった
「世話になった流山の民家を戦に巻き込まないため」に自首したと言われてきました。
でも、それは大嘘です。
近藤の率いる甲陽鎮撫隊が駐屯したのはその2日前です。
さらに自ら新政府軍に出頭したのは、甲陽鎮撫隊結成の大義名分に偽りがないからです。
近藤勇の足跡を見ると、幕臣になりたいとの思いの強さを伺い知ることができます。
名を上げたいと猪突猛進する戦人(いくさびと)としての土方歳三との違いがはっきり分かります。
幕府の命(将軍の命)を受けて甲陽鎮撫隊を率いているという思いが強かったのでしょう。
- 近藤勇と土方歳三との別れ
近藤勇はどちらかというと恭順派の勝海舟に近かったようです。
近藤勇にとっての新選組は、幕府の命による京都の治安のための組織であり、江戸帰還後に甲陽鎮撫隊を結成したのも、正式に幕臣にしてもらった徳川幕府のための忠義であり、甲州の治安維持が目的です。
土方歳三は、地位よりも名声を求めるタイプです。そのために自意識過剰な言動も目立ち、新選組内での人気は低かったようです。
だからこそ近藤勇のカリスマ性を実感していました。
野武士集団ともいえる新選組をまとめて来たのは近藤勇に他なりません。
ここまで行動を共にしたのは、隊を率いるための旗頭としての近藤勇でした。
事実、このあと土方の傍からは一人二人と去って行きました。
- 流山に甲陽鎮撫隊が集結したわけ
思いの異なる近藤勇と土方歳三ですが、ともかく流山までは行動を共にして来ました。その理由が幾つか考えられます。
近藤勇が幕府から命じられたのは甲州の治安維持です。
甲州には幕府の直轄地が多かったので、近藤勇改め大久保剛に甲州の治安維持を命じた理由も納得がいきます。
そして流山まで江戸川で遡り、さらに関宿から利根川を遡れば甲州です。
一方で土方歳三は会津を目指していました。
戦場以外に自分が必要とされる場がなかったのです。
近藤勇との別れの後、宇都宮城の攻防戦で傷つく土方歳三ですが、流山は東北地方への玄関口でもあったのです。
- 水運なくして軍備は運べない
結成直後の甲陽鎮撫隊が甲州勝沼の戦いで板垣退助率いる迅衛隊に敗れたのも、大砲など軍備の差によるところが大きかったようです。
もちろん近藤勇たち甲陽鎮撫隊も大砲を分解して持ち込んだようですが、組み上がる前に戦が始まり、まったく役に立たなかったようです。
当時の戦争の主要な兵器は、銃と大砲です。
さらに武士ならば大刀と小刀は肌身離さず持参します。
この大刀と小刀、持ってみると分かるのですが結構な重さです。
さらに銃を担ぎ、大砲を運ぶのですから大変な重量です。
とうてい人力だけで運ぶことなどできません。
そして江戸周辺の水運の拠点だったのが流山です。
ここならば江戸からの軍需物資を運び込むことも可能だったのです。
- 新政府軍へ出頭しなくても土方歳三と別れていた
近藤勇にとっては、鳥羽伏見の敗戦がトラウマになっていただけでなく、鳥羽伏見の戦いの傷やその後の襲撃によって負った傷によって、身動きが取れないほどに追い詰められていたのでしょう。
でなければ、土方歳三と共に会津へ向かう道もあれば、江戸川を下って江戸へと舞いもどる道もあったはずです。
幕臣になりたかった近藤勇は、幕臣として新政府軍に弁明することにより、幕臣としての役割を果たしたにすぎません。
そして土方歳三もまた、当初の予定通り会津へと向かう道を選んだのです。
・・・・・・・・・・・・・・・
ところで斬首された近藤勇の罪状は何でしょうか。
鳥羽伏見で戦ったからですか?
新選組局長だったからですか?
実はどちらも処刑の理由にはなりません。
幕府の命に従っただけです。
池田屋事件も京都の放火計画阻止のためであり、罪に問われる理由になりません。
処罰を巡って薩摩藩と土佐藩で対立し、結局は土佐藩が押し切って斬首となりました。
坂本龍馬と中岡慎太郎を暗殺したのが新選組だという理由ですが、今では新選組ではなく見廻組による暗殺が定説になっています。
近藤勇の死罪は不当判決、とんでもない冤罪ということになるようです。
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