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【雑学】紫式部と清少納言はライバル?不仲の真相は!?

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さて、みなさんは古典は好きですか?なんて聞かれても、なかなか好きだ!って言える人はいないのではないでしょうか。なぜ私たちは古典文学に対して苦手意識を持っているのでしょう。

たしかにスラスラと読むこと自体難しいですし、読めたところで「意味わかんなーい」となってしまいますよね。

神社

でも、時代は違えど同じ日本人!
本当はもっと身近に共感できる話のはずです。

そこで、古文を避けてしまいがちな皆さんに、不仲で有名な紫式部清少納言のお話をしてみたいと思います。

どちらもソーシャルゲームの「FGO」に登場していますね。
元ネタを知るともっと面白くなるかもしれませんね!

 
今回は目次を用意しましたよ♪

 1.清少納言は “超キャリアウーマン” だった!
 2.破天荒な清少納言
 3.「思うがままに!」清少納言の狂気

 4.“登場!” 優秀すぎる紫式部
 5.『紫式部日記』は古代版デスノートだった?!
 6.イイことも、ちゃんと書きます紫式部

 7.不仲は本当? 衝撃の真相
 8.いつからライバルに?
 9.似た者同士!? 正反対なふたりの本音

 ~エピローグ~
 ふたり の 天才

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清少納言は “超キャリアウーマン” だった!

清少納言がもの凄いやり手のキャリアウーマンだったというのは有名な話。

でも、どうしてそんな風に呼ばれるのか。

そもそも清少納言は何をしていた人なの? というところから見ていきましょう。

 

…と、その前に!
清少納言は「清さん家の少納言という役職に就いていた人」という意味に捉えてしまいがちですが、平安時代中期、女性は官職に就くことは出来ませんでした。つまり、清少納言は「少納言」ではなかったわけです。
※少納言…いまでいうと内閣の大臣補佐を行う官僚であり、天皇や総理大臣の秘書も担うウルトラ忙しい立場。

清少納言の朝廷でのお仕事は「中宮・定子の女房の一人(お姫様のお世話役)」であり、女房の中でも最も定子のそばで生活のお手伝いや生活における教育をすることでした。

わかりやすくいうと、生徒指導の先生のようなものです!

……生徒指導の先生と24時間一緒にいるお姫さまってのも中々しんどいですよね。

 

頭を抱える

 

じゃあ、本当は「清少納言」ではなく「清女房」???

いえいえ、そもそも少納言も女房も 名前 ではなく、職業。
本名は別にあったはずです。でも、どこをみても本名は見つかりません。

『平安時代、女性は名前を名乗らない!』これが鉄則。
名前を知っているのは家族と結婚相手のみ!と決まっていたのです。
いえ、もしかすると、当時の男性は結婚相手の名前すら知らないこともあったようです。
平安時代の女性の名をみると、「~式部」「~娘」「~母」というように、本名ではなく役職や父・息子との関係性で呼ばれていますよね。

 

破天荒な清少納言

「春はあけぼの~~~」で有名な『枕草子』を書いた清少納言は、作家というわけではないのです。
枕草子の内容は、日記やその時思いついたことまでいろんなことを書いています。
まぁ、女性が文字を書くだけでもすごいと言われた時代に、漢文も読むことができた天才です。

 

この時代、女性は勉強なんて出来なくていい。文字も書けなくていい。
とくに漢字は男社会のもので、読むことすら必要ない。とにかく謙虚でいればいい。

と言われていました。

そんな中、堂々と漢文を書いて、貴族の男性との会話でも、自身の持っている知識をフル活用して論破してしまう。
出しゃばってしまう強気な性格だったので、清少納言て嫌われ者?と思ってしまいますが、実は正反対!
和歌の知識も漢詩の知識も兼ね備えた彼女は、宮中の男性人に大人気!!!

彼女がお休みで自宅に帰っていると「清少納言はどこだー!」と探し回る人もいれば、
橘則光(清少納言の元夫)に居場所を問い詰める人までいたんだとか。

 

「おい、則光!お前の奥さんは今どこにいるんだ!上司が聞いてるんだ、教えろ!」
「則光さん、絶対に私の居場所を教えちゃだめですよ!お休みなんだから!」

いやぁ、きっと大変だったんだろうな~ぁ。則光さんお疲れ様(^^;)

巫女

何が原因かははっきりとわかっていませんが、のちに離婚するんです。
どうやら橘則光は和歌や言葉遊びが苦手な体育会系のメンズらしく、価値観が合わなかったとも言われています。ただ、離婚しても宮中では恋人同士のように仲良しだったので、真実はふたりのみぞ知るといったところでしょうか。

 

そんな彼女ですが、その才能が開花したのは中宮定子に仕えるようになってから。
「頭のいい子」が一躍「宮中一の才女」と言われるまでになりました。
※定子…藤原定子。藤原道隆の娘で、非常に賢く華やかな性格。もちろん誰もが認める美貌の持ち主だったそうな。

清少納言は主人である定子が大好き!そして、定子も頼れる清少納言の才能を高く評価し、
相思相愛だったのだそうです。

 

「思うがままに!」清少納言の狂気

 

さて、そんな清少納言のかいた『枕草子』って一体?

いまでは「をかし(趣がある様、特に感動や美に関する表現)」の文学ともたとえられる作品ですね。

では実際の内容はというと、
「春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは、少しあかりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。夏は夜。月の…」

古文が苦手な人って、ここで先生に「さぁ、訳しましょう!」といわれて拒絶反応が出てしまいますよね。

 

でも、少しだけ『枕草子』の話をすると「え!そんなこと書いてあんの?!」と驚かれたり、面白そう!と興味をもってくれる学生さんも多いので、ちょこっと紹介しますね♪

 

第26段
  憎らしいものは、寝ているときの蚊! 元カノをほめる男!とかとか

第103段
  見苦しいものは、昼間にイチャつく痛いカップルと働かずに自分の夢を持たない女!とかとか

第253段
  私の才能にケチつけてくる人がいるらしいけど、
  自分のことを差し置いてこんなにまでもどかしい物言い(悪口)なんてありえない!とか

 

“あれ?意外と思ってること一緒じゃん!” と共感できませんか?

気になったら『枕草子』を読んでみてください(笑)

 

 

登場! 優秀すぎる紫式部

平安時代の作品といえば『源氏物語』を思い浮かべる人は少なくないですよね。なんといっても、平安時代のベストセラー小説であり、1000年経った今も世界中で翻訳され読まれている作品です。ハンパなくスゲェよ、紫式部!!!

 

この『源氏物語』は、漢詩だけではなく、和歌や仏典の内容も組み込まれた大作。物語としてだけではなく、教養を身につけるための本として好まれました。中宮・彰子もその一人でした。(彰子…藤原道長の娘。定子の従妹。そして一条天皇のお姫様。)

 

道長は考えました。
一条天皇は定子に夢中…。何とかして娘(彰子)に振り向かせないと…。

そこで!!!!
『源氏物語』を知ったパパは「これだけ才能のある人にそばにいてもらおうじゃない!ナイスアイディア!」とひらめいたのです。こうして、紫式部は彰子の女房になりました。

紫式部、藤原家出身とはいえ、漢文学者の娘。つまり、貴族の中では身分はかなり低かった!
ひとつの小説をきっかけに一躍大スターだもの、やっぱりスゲェよ!!!

眼鏡

 

不仲説はここから始まった…

漢文学者の父を持つ紫式部も、幼いころからの天才でした。
兄が漢文の勉強をしている隣で遊んでいた幼少期、気づいたときにはいつの間にか漢詩が読めるようになっていた!?聞き流して覚えたというのか…!?!?

でも為時(父)からは「なんという才能!男だったら良かったのに…」と言われてしまいます。

 

そう、当時は平安時代。貴族の女性であってもひらがなさえ書ければ十分!という時代。

紫式部はそのことに気づいたんです。
“そっか。私は頭がよくて何でも出来ちゃったらいけないんだ!”←なんとうらやましい悩みだ…

ここが清少納言とのターニングポイントです!

 

自身の能力を惜しみなく発揮する清少納言とは対照的に、
宮中では漢字の「一」すら読めないふりをして生活していた紫式部。

勉強なんてできない立派な妻を必死に演じていましたが、夫は若くして亡くなってしまい、
「演じるのももう疲れたわ。よし!本でも書きましょう!」と『源氏物語』を書き始めます。

才能が認められて彰子の女房になるも、人前では話さない。一条天皇が「教養ある人だ」と褒めればものすごく落ち込む。そんな性格だからこそ、ストレスも溜まっていたようで、清少納言との不仲説の原因となる『紫式部日記』を書き始めるのです。

思ったことは心の中に留めておく内気なタイプだったのでしょう。

 

『紫式部日記』は古代版デスノートだった?!

読書

さて、名前を書いたら死んでしまうという「デスノート」。
もちろん、そんな特殊機能はついていないのですが、なんといっても『紫式部日記』の面白いところは2つ。宮中の生活がわかるところと、悪口が盛りだくさんなところです!

最も有名なのが「清少納言について」です。
本文を訳してみました。

 清少納言は自慢げで偉そうにしている人です。
 すごく賢いアピールしてるくせに、漢字はよく見ると間違いもあるわ。
 こんな風に自信家な性格だと絶対見劣りして、
 ひどい未来が待っていることでしょうね。
 常に「面白いことはないか」とちょろちょろ探し回って、やだやだ。
 誠実さを失った人の人生なんてろくなものじゃないわ。あ~可哀想に。

『紫式部日記』には、いろんな人が出てきますが、とくに清少納言についてはアタリがきつめです。

 

どうしてこんなにまで清少納言を批判するのか。
きっとそれは、自分を押し殺して生活してきた紫式部の、思うがままに言いたいことを言ってしまう清少納言に対する憧れがあったのかもしれません。

 

日記なので、当時の人はどんなことを書かれているか知る由もないはずです。
知らない間にあれこれ書かれて、1000年後に「うわ、清少納言ダメな奴だ~」と言われてしまうのですから。反対に、悪口の多い紫式部自身も「性格悪~」といわれてしまう。なんとも恐ろしい「デスノート」ですね。

皆さん、日記や小中学校の連絡帳は、もし1000年後、誰かに見られてもよい内容ですか???

 

 

イイことも、ちゃんと書きます紫式部

『紫式部日記』は悪口が書かれていることで有名です。
先の清少納言だけでなく、同じく中宮彰子に仕えた和泉式部のこともこう書いています。

“よく手紙をやり取りしました。手紙を書いたり、とっさに和歌を詠んだりしたときの言葉の美しさや、趣のある作風は興味深いものです。でも、才能がありながら、他人の和歌につべこべ口出しするのは感心しないわ。私が恥ずかしい思いをするほど凄い歌人ではないです。”

褒めながらも結局は評価を下げる。
なんというか、いちばん上司にしたくないタイプというか…笑

 

でも、藤原道長については、彼のイメージとはことなった「娘や孫をかわいがるおじいちゃん」の一面を書いています。ただ、和歌を贈り合い、愛人だったのか!?とも噂されていますが、やはり紫式部。かなり気を遣いながらも遠回しに めんどくさい人だ と批評していたりします。

いいところも、悪いところもちゃんと見ていた紫式部だったのかもしれませんね。

桜

藤原道長といえば、摂政であり関白であって太政大臣だった「ウルトラMAXデラックスすごい人‼」。
大雑把な性格で、権力のすべてを手に入れた彼が詠んだ歌は

 “この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば”
  (この世界は私のものだ。満月(権力)は欠けることはない。)

たとえるなら、日本版ナポレオンか…日本版チンギスハンか…平安版道明寺司(『花より男子』)か…

そんな彼のプライベートを日記に書き、
遠回しに「うざいわ~」と書けてしまう紫式部、怖いわ~笑

不仲は嘘だった! 衝撃の真相

さてさて、『紫式部日記』のこともあり、

清少納言と紫式部は犬猿の仲だったんだ!と言われていますが、実際はそんなことはありませんでした。

なぜ断言できるかというと、紫式部が中宮彰子に仕え宮中に入ったのは
清少納言が引退した5年後。

つまり、紫式部と清少納言は直接面識がなかったと考えられるわけです。

あったこともない人と仲が悪くなることはないですよね。

 

ただ、紫式部はもともと身分の低い貴族出身だったので、
同僚からのハラスメントは少なからずあったようで…

頭が良すぎて悩み、出世したらいじめられ、なんだか
そりゃあ悪口の1つや2つ書きたくなるよねって同情してしまいます。

 

いつからライバルに?

でも、なぜ会ったこともない清少納言のことを悪く言ったのでしょう?

それは二人の関係性に原因があったようです。

 

まず、清少納言は中宮定子の女房。紫式部は中宮彰子の女房。

つまり、恋のライバルである定子と彰子に仕える二人もライバル関係なわけです。

 

そして、藤原家の長男・藤原道隆の娘で、頭もよく美しくおしゃれな定子と
藤原家の五男・藤原道長の娘で、やや控えめな彰子とでは、周りからの評価が大きく違っていました。

「定子様の父は優秀。兄もかっこよくて出世している。そばにいる清少納言も明るく知識もある。」

「それに比べ、傲慢で大雑把な道長さんの娘でしょ、すごく地味だし。定子様の勝ちね~。」

なんて言われていたのでしょう。
そこへ自身の生い立ちも相まって、紫式部は一方的に清少納言を敵視するようになったのです。

五重塔

貴族ってまったりのんびり優雅な生活~~ってわけじゃないんですね。

 

 

似た者同士!? 正反対なふたりの本音

 

ぐいぐいアピール女番長タイプの清少納言 と 能ある鷹は爪を隠す派の陰キャラ紫式部。

 

性格の相対する二人ですが、実は共通点がありました。

 

清少納言は中宮定子にぞっこん!惚れてしまっています。
そばにいるだけで幸せ~!!!って感じです。

紫式部は、表には出しませんが
「は?なに彰子様が定子に劣っているはずないじゃない!」という気持ちから
清少納言の文句を日記に記したわけです。

 

もうおわかりですね?

ふたりに共通しているのは、「私の主は世界一よ!」という想い。
「主のために何かしたい!」というプロ意識は、互いに同じだったのです。

華

定子の父・道隆が亡くなり、彰子が皇子を生んだことで、
結果としては予想を裏切る 彰子の勝利! となったわけですが。

 

「そんなことどうでもいいわ!私の一番は定子様ですもの!」
と清少納言はいうのでしょうね。

 

 

~エピローグ~ ふたり の てんさい

 

どうですか?
平安時代も平成も、考え方はそんなに変わらないですよね。
少しでも古文を身近に感じてもらえましたか?

清少納言先輩と紫式部、このふたりが同じ時期に宮中にいたら、どんな話をしたのでしょう。
本当にケンカばかりしていたかもしれないし、意気投合していたのかも。

そして、女性の社会的地位が保障されている現代によみがえったなら、清少納言はグローバル企業の社長で、紫式部は総理大臣になっていたのかも!なんて想像してしまいますね。

 

幼女

清「ほら、紫も飲み会行こうよ!いろんな話聞けるしタメになるって!ね!」

 紫「遠慮するわ。先輩と違って謙虚さが私の持ち味だから。」

清「なにいってんの!常に自分を高めなくちゃ!ただでさえ地味なんだからさ!」

 紫「いいってば…(カッチーン!何様のつもりよ!むかつく!日記に書いたろ!←心の声)」

 

……仲良くは…ならないかな…(^_^;)

 

 

「日記文学」は当時の生活を知る貴重な資料でもありますが、
作者が考え感じたことをダイレクトに受け取ることができ、共感もできるものです。
ぜひ読んでみてください♪

 

 

本当に古文が嫌い!という人におすすめなのは『あさきゆめみし』というマンガです。
源氏物語を忠実に再現していて、当時の生活文化も知られる作品です。

 

※途中の現代語訳は、ナウい言葉で一部省略しながら訳したものです。
 完全な翻訳ではなく、テストで書くと減点されますのでご注意ください。(櫻井星)

 

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